言葉を生む心


●先生のおはなし
「言葉を生む心」

金光教泉南せんなん教会
明渡あけど 清志きよし 先生


 私たちは、毎日の生活の中で、様々な言葉を使っていますが、何気なく発せられた言葉で傷ついたり励まされたりします。最近、その「言葉」というものは、どこから生まれてくるのか考えるようになりました。
 随分昔のことですが、私は交通事故で命を失いかけた経験があります。当時、小学5年生の私は、家路を急ぐあまりに自転車で国道を横切ろうとした時、車と衝突してしまいました。自転車は10メートル以上飛ばされ、道路に強くたたきつけられた私は、脳挫傷を始め、内臓の破損や骨折などの重傷を負ってしまいました。
 慌しく医療機器が運ばれる手術室の前で、今夜が峠であることを告げられた両親は、事故の相手の青年と、不安な一夜を過ごしたということです。朝方になって手術は終わり、何とか命を助けていただきました。
 集中治療室から一般病棟に移されたのは3日後。私は、目と鼻以外のほとんどを白い包帯でぐるぐるに巻かれ、全身の痛みで苦しんでいたそうです。
 そんな時、事故の相手の青年が病室に入って来ました。彼は苦しんでいる私のそばに恐る恐る近付き、震える声で「ごめんね」と言ったそうです。その時、私が苦しい息の下で「僕の方こそ」と言ったのです。誰もが耳を疑ったそうです。激しい痛みを耐えている10歳の少年が、自分も悪かったと謝ったのですから。
 当時のことは、私は全く覚えていません。後遺症が心配されるような激しい脳挫傷でしたから。そんな中で出てきた「僕の方こそ」という相手を気遣う言葉には、両親にとっても意外であったそうです。相手の青年は、声をあげて泣いたそうです。「あの時ほどうれしかったことはなかった」と、後になって彼は言ってくれました。両親も、あの一言は、周りの皆の気持ちを元気にしてくれたと、言っていました。「事故の加害者と被害者という垣根を外し、皆が反省し、感謝し、そして前向きになれた」と。
 あれから30年近くが経ち、私にも妻と子どもができ、長男はもうすぐ、事故に遭った時の私の年齢になります。日に日に成長していく我が子の姿に昔の自分を重ねながら、あの時の「僕の方こそ」という言葉は、何によって生み出されたのだろうかということを思います。朦朧もうろうとした意識で思い出すこともできないような状態ですから、意識的に考えて出た言葉でないことは確かです。
 私たちの日頃の生活を振り返ってみても、考えて使っている言葉よりも、反射的に無意識に近い状態で使っている言葉の方が多いのではないでしょうか。目や耳を通して自分の心の中に入ってきたものに、心のどこかが反応して、次の言動が生まれる。大切なことは、自分の心のどんなところが反応するかによって、その次の展開が大きく変わるということではないかと思います。
 金光教には、神心かみごころ人心ひとごころという言葉があります。自分の都合を先に考え、我が力で何事もしようとするのが人心。それに対して、他人への思いやりを大事にして、自分の計らいを捨てた心を神心と呼びます。この神心とは、特別なものではありません。幼い子どもが、怪我をして泣くお友達に「大丈夫?」と声を掛ける気持ちが、そのまま神心なのですから、誰しもが持ち合わせている心だと思います。
 しかし、その特別でないはずの心が、社会生活を送る中で、特別なものになっている自分に気が付きます。困っている人を見ても、声を掛けた後に自分に降りかかるかもしれない心配が頭をよぎったりすると、可哀想にと思う気持ちより、関わらない方がいいかも知れないと考えてみたりしてしまう。
 また、家族や友人との間でも、優しい言葉を発しようと思ったのに、自分のプライドがストップをかけてしまうということがよくあります。そして、一度タイミングを逃した言葉は、なかなか口には出せません。
 そんな時には、もう、神心は奥底に潜んでしまい、人心の方が前に出ていますから、ろくでもない言葉しか出てきません。そうして発せられた、言わなくてもいい一言で、私は、随分と問題のないところに問題を作ってきたように思います。
 30年前の「僕の方こそ」という一言は、問題のあるところに感謝の心を生みました。
 なぜ、あのような言葉が生まれてきたのか。今、私が思うことは、私の生まれ育った環境、すなわち祖父母や両親の生き方です。
 両親は、どんな問題でも、まず神様に手を合わせることから始めました。手を合わせて祈る姿が日常の生活の中にありました。明らかに相手が間違っていて、こちらの方が正しいという時でも、まず先に神様に手を合わせる。そういう姿が、10歳の少年の神心を引き出したのではないかと思います。
 現在、私は家族と一緒に、毎日金光教の教会に参拝する生活をしています。それは、つい人を傷つける言葉ばかりが出てしまう自分を自覚し、それでも助かっていきたいと願うからです。そのためには、自分の中にある神心を育てることが大切だと思います。そうすれば、とっさの時でも相手を気遣い、自分も生きてくるような言葉が、無意識のうちに出てくるのではないでしょうか。
 信仰とは、そのような心を育てていくために、相手のことを思い、本気で祈ることではないかと思います。

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