分かってるけど


●信心ライブ
「分かってるけど」

金光教放送センター


(ナレ)金光教の集会で行われた発表や講話などを録音で紹介する「信心ライブ」。今日は、大分県日田ひた教会の堀尾光俊ほりおみつとしさんが、平成27年1月に、金光教本部でお話されたものをお聞き頂きます。
 
(音源)下関にフグで有名な、唐戸からと市場という市場があります。ご存じの方、ありますか?
 そこにおすし屋さんがありまして、私も以前行ったことがある。そこに入りましたらね、もう最初に目に飛び込んできた。何かと言いましたらね、従業員が全員白いTシャツを着てるんですよ。そのTシャツの背中に、毛筆体の筆字で「はい、よろこんで!」って書いてある。中ですしを握ってくれるあんちゃんたちは、法被はっぴみたいな物を着て、その背中にやっぱり、「はい、よろこんで!」って書いてある。
 ほう、なかなかいい言葉を書いてあるなと思って、生ビールを注文した。「あっお姉さん、生ビール1つ」「はい、よろこんで!」って持ってくる。「あ、ちょっとトロ握って」「はい、よろこんで!」。もうこれがね、決まりなんですよ、そのお店は。それはおそらく、店長だか上司の営業方針でそういうふうに店員教育されているのかもしれませんけどね、聞いてて悪い気がしませんよ、ほんとに。
 嫌々持ってこられるよりね、元気のない声で、「はい、いらっしゃい」なんてより、何を頼んでも元気よく、「はい、よろこんで!」。「おかわり」って言ったって、「はい、よろこんで!」と持ってくるなら、これは気持ちがいいですよ。これはいいなあと思った。一緒にいた家内もそう思ったらしい。
 それで私と家内が帰ったその日から、「お父さん、私たちもやろうか」「そうね」。「お茶」、「はい、よろこんで!」。「お父さん、今朝ゴミ出しとって」、「はい、よろこんで!」。まあ、あのね2日くらいは何とかなる。ねっ。
 1週間もちませんでしたね。着眼点は良かったけどね。「まあ俺たちはいちいち言葉に出さんでも、心で感謝しているからいいか」とか何とか言いながらね。
 分かってるけど出来ない。分かってれば出来てよさそうだけれども出来ない。信心は、分かるということと、出来るということは別なんですね。だから出来る稽古がいるということなんですよ。
 ところが分かっただけで出来ている気になる、これが一番危ない。これが一番危ないですね。ある時、足元をすくわれる。
 教祖様のご理解で私が好きなのがね、「信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ」と仰っている。
 「礼を言えよ」じゃないでしょ。「礼を言いなさいよ」じゃないんですよ。「礼を言う心持ちになれよ」。これが、もし、「木の切り株に腰をおろして休んだら、立つ時には礼を言えよ」なんていうご理解だったら、きついし、うるさいし。思いません?
 教祖様は、私たちが出来ないことを百も承知なんですね。だから、あえてそういう心になるように努力しなさいよ。心掛けなさいよ。かばって、かばって、かばって、かばって下さっての、み教えじゃないですか。私、それがありがたいんですよ。
 「礼を言うような心になれよ」と仰っておられる。ならば、1回2回3回忘れてもいいじゃないですか。思い出したら、「そうだ、ありがとうございます」って言えばいいんだ。そうでしょ。そういう私たちだということは神様もご承知だから、私たちはどうすればいいか、そこにあぐらをかくんじゃなくて、「どうぞ少しでもお礼が申せる私にならせて下さい。お礼が本物になりますように気付かせて下さい。おかげを頂かせて下さい」という祈りが出来るということじゃないですか。

 
(ナレ)いかがでしたか。
 「信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ」。これは、金光教では大変に有名な教えです。しかし、堀尾さんの今のお話を聞いて、「礼を言えよ」ではなく、「礼を言う心持ちになれよ」という教えであることに改めて気付かされました。お礼を言えるような自分にならせてもらおうと心を磨いていく、その姿勢にこそ、この教えの大切なところが示されているんですね。
 お話の中で、「分かっただけで出来ている気になるのが、一番危ない」とおっしゃっています。情報社会と言われる現代は、ますます情報があふれ、いろいろなことを分かっただけで出来た気になっているのではないでしょうか。私も例外ではありません。皆さん、そんな自分に気付いたら、是非今日のお話を思い出してみて下さい。
 では、最後まで聞いて頂き、ありがとうございました!

タイトルとURLをコピーしました