生きて帰ってこい


●「平和」
「生きて帰ってこい」

金光教放送センター


(ナレ)第二次世界大戦後、シベリア抑留で強制労働をさせられた菱田英一ひしだえいいちさん。大正12年生まれの95歳です。岐阜県大垣市で生まれ、7人兄弟の長男でした。
 子どもの頃はバスケットボールが大好きで、長男ということも影響してか、何かとリーダーにさせられることが多い少年時代でした。
 高等小学校を卒業した後は、大家族の家計を助けるために就職しましたが、より安定した収入を得るために、17歳で陸軍造兵しょうで働くことにしました。そして昭和19年1月、二十歳の時に召集を受け、満州へ送られることになりました。
 菱田さんは厳しい訓練の後、戦車の操縦士となりました。終戦間際の7月、ソ連は菱田さんが所属する部隊へも攻め込んできました。突然の機銃掃射を受け、多くの仲間が戦死する中、菱田さんはかろうじて銃撃を免れました。
 そして8月15日、終戦となりました。部隊は大きな広場に集められました。上官から敗戦を告げられ、シベリアを経由して日本へ帰る、ということが伝えられました。

(菱田)何十万という人が、シベリアへ入れんでしょ。だから、徒歩で行く部隊と、列車で行く部隊と、車で行く部隊と、3つに分かれたんです。いちばんクジ運が悪かったんですね。歩いて行ったんです。ウラジオストクから帰るという話やったんですね。

(ナレ)大量の荷物を背負い、山の中を1日に40キロほど歩く日もありました。雨の日も休まず、キャンプをする目的地を目指しました。しかしそのキャンプ地は、先に出た部隊の残骸などの異臭が漂い、ゆっくり眠ることもできませんでした。

(菱田)いっぱい人が死んだり、倒れたり…。もう汚物がいっぱい。もうとんでもないとこやね。もう、生き地獄みたいなもんやね。

(ナレ)二十日ほど歩いてソ連側の町に着き、そこからは列車で移動するとのことでした。仲間たちと、右側へ進む列車に乗れば日本に帰れると喜びました。しかし…。

(菱田)いよいよ日本へ帰るというところ、汽車に乗った。「左に行く」と。おかしい。「何で左に行くんや」と聞いたら、「これから強制労働や」と。それでみんな、バタバタっと倒れたですね。

(ナレ)通訳をしていた戦友から、ソ連兵の話の内容はすぐに伝わりました。絶望のあまり、この地で死んでしまった者もいました。
 日本とは反対側の、ハバロフスクの近くの町に着き、強制労働が始まりました。
 主な作業は木材の伐採でした。高さ20メートル、直径2メートル以上の大木を、2人でのこぎりをひいて切り倒します。それを川の下流まで流し、そこから極寒の川の中に入り、10人以上で木材を引き揚げ、貨物列車に積み込むという作業でした。
 過酷な作業にはノルマが課せられ、昼夜を問わず、1日十数時間にもなり、呼び出されれば、夜中でも関係なく働かされました。
 睡眠不足や栄養不足で、菱田さんも作業中に大けがをしました。仲間たちの中には精神を病む者も少なくありませんでした。残念ながら、多くの仲間が死んでいきました。
 収容所では、2百人から3百人の日本人の責任者として、「収容所長」という役職がありました。菱田さんに、その4代目として白羽の矢が立ちました。

(菱田)なってしまったんよ。それで私は、このままではあかんと思って、みんなに言うた。「とにかく元気で、生きて帰ろう」と。「持っとる所持品を全部出してくれと、それを何とか使うと」。賄賂ですね、極端に言えば。だからみんな持っとる指輪とか形見のもん、どうせ取り上げられてまうと。窮余の一策やわね。それからガラッと変わった、ソ連の態度が。それから、楽になった。それが一つの分岐点ですね。

(ナレ)こうして呼び掛けたのには理由がありました。菱田さんが生まれ育った家の隣は、金光教の教会でした。
 金光教南大垣みなみおおがき教会の、初代の教会長先生は一回り年上で、お兄さんのような存在でした。その先生から出征直前に、一言言われました。

(菱田)お前ちょっとここ座れ。言いたいことがある。「はい」「何があっても、生きて帰ってこい」。こう言われた。「ええ? 生きて帰ってこいって、どうすんの」。そんなこと、夢にも思っとらんですしねえ。けども、そのことが、シベリアからずっと何としても帰らなという気持ちがあったんですね、私。あれももし聞かれたら、えらいこっちゃですよ。うん。言われた時、びっくりしたですね。

(ナレ)「生きて帰ってこい」。この言葉に支えられました。
 その後、夜中の労働はなくなり、国際赤十字の介入もあり、食事も以前より栄養価の高い物が与えられるようになりました。
 日本へ帰る日は、3年が経ったある時、突然やってきました。ナホトカ港から日本に帰った時は、みんな号泣でした。
 大垣に帰ると、家族は赤飯を炊いて迎えてくれ、教会の先生も喜んでくれました。
 両親も金光教の信心をしていました。特にお母さんの言葉から、平和に対する思いを振り返ります。

(菱田)母はいっつもこう言ってましたわ。「私たちは、教会、お参りして、お願いして、祈る所があるでええなあ。我々は恵まれとるでええなあ。幸せやなあ」ってことを、絶えず言ってました。私はそれが元なんですわ。
 私は難しいこと言わんでも、天と地の恵みの中で生きとるんやと。天の恩、地の恩さえ知りゃあええんやと私はいつも言う。それが平和につながってくるような気がするんですわ。

(ナレ)菱田さんは、「生かされた」という思いを大切にして、次の世代のためにも一生懸命に働きました。また、私財を投じて、日本と中国の民間交流を行うなど、国際的な橋渡しも担ってきました。
 少し足が不自由になった今も、平和への願いは変わりません。

タイトルとURLをコピーしました