私の中に詰まっているもの


●信心ライブ
「私の中に詰まっているもの」

金光教放送センター


(ナレ)おはようございます。
 今日は、広島県・金光教芸備げいび教会の佐藤さとう智恵子ちえこさんが、平成31年3月、金光教本部でお話しされたものをお聞きいただきます。

(音源)私は結婚するまで長崎市内の路面電車も路線バスもたくさんあるような 、JRの駅も徒歩で行けるような所に住んでおりましたので、本当にびっくりして、「すごい所に来たなあ」と思ったんですけど、よく言うと自然豊かな静かな所です。
 それまで学校とか公園とかでしか、土を踏むことがなかったんです。そういう生活だったんですけれども、あの辺りはほとんどのおうちにお庭があって、植木やお花がたくさん生えて、本当に奇麗で、今頃はすごく緑が奇麗です。だんだん出てきました。桜もぼちぼち咲いてきました。田んぼや畑もたくさんあります。山もあります。
 結婚して間もなしです。ある時、おうちの人が、「畑のねぎを採ってきます」と言って包丁を持って出ていきました。あの辺で言う「ねぎ」というのは白ねぎではなくて青ねぎです。お店で細長い袋に入って、根っこがちょろっと付いている、ああいう姿しか知らなかったので、「包丁を持って何をするのかな。根っこを切ってくるのかな」くらいに思っていました。ねぎは抜いて収穫するとずっと思ってたので不思議だったんです。聞いてみると、「必要な分だけ青いところを包丁で切ってくるんだよ。そうすれば、いくらでもまた新しいねぎが下から生えてくるんだよ」と教えられて、びっくりしました。今が旬のおいしいワケギは完全に抜いてしまうんですけど、ねぎは青いところを切ってくるんです。
 他にもいろいろ植えてあります。冬は毎日、大根、白菜、大根、白菜でした。ほうれん草もたくさんいただきました。夏になるとキュウリやトマトやなす、本当に採りたての新鮮な野菜がすぐ食卓に並びます。
 ここに来て初めて、採りたてのキュウリのイボイボがあんなに痛いものと知りましたし、おなすにもヘタに鋭いトゲが付いてるんです。トマトは、トマトだけじゃなくて木に触っただけでトマトの香りがする。にがうりは沖縄にしかできないものだと思っていました。
 結婚して数年が経ち、私も包丁を持ってねぎを採りに畑に走るのが普通になっていました。いつものようにねぎのシャンとした葉っぱに包丁を当ててスパッと切りました。
 それまで何度もねぎを採りに行っていましたが、その時初めて感じたことがありました。パンパンに丸々と太った…と言ってもねぎですから中は空洞なんですけど、立派なねぎを包丁でこうやってスパッと切ると、ふっと力を抜いて私の手の中に入ってきたんです。
 その感触、ねぎの感触。このねぎの中に入っているものは一体何だろうと思ったんです。今までシャンと立ってたこのねぎ。切ると、ふっと力を抜いて、そっと私の手の中に入ってきた、あのねぎの感触が、初めての感触というかびっくりしたんです。「この空気は一体何だろう。どこから入ってきたのかな」と思ったんです。
 大根は、あんな小さな種からかいわれ大根になって、ずっしりと重い大根が出来るまでに、たくさんの栄養を溜め込んでいます。ねぎもしっかり太くなって天に向かってまっすぐフサフサに立ってるんです。ねぎがねぎらしくあるためにこの空気がいるんです。まさしく天地のお恵みだと思いました。天地のお恵みがパンパンに詰まっていると思ったんです。目には見えなくても大事なものが確かに存在する。
 それならば、私の中には何が詰まっているんだろうと思いました。天地のお恵みには違いないと思うけど、どこを押しても不平不満がピュッと飛び出してこないかなあと、その時に思ったんです。
 私を立たせているものは何だろう。私が私らしくあるために、自分の足で立つために、良いものでいっぱいになりたいと思いました。感謝の心とかでいっぱいになりたい、そう思ったのでした。
 あれから20年近くが経ちました。あの時から畑に入る時はお土地を拝んで入るようになりました。ねぎを取りにいく度に、「しゃんとせい」という声が聞こえてきそうです。
 「まだまだ足りんぞ。変わっとらんじゃないか。ひょろひょろしてるぞ」
 「はい頑張ります」
 ねぎと語り合ってるおばさんなんです。


(ナレ)太陽の光を受けて、天に向かってシャンと立っているねぎ。小さな種から大地の中で丸々と育つ大根。自然の力というのはすごいものですね。
 佐藤さんはその自然の力の中に、ねぎをねぎらしく、大根を大根らしくしていく働きを見付けたのでした。
 人間として人間らしく、自分として自分らしく、そんなふうに生きることができたらいいなと思いました。

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