亡き夫の魂と共に



●信者さんのおはなし
「亡き夫の魂と共に」

金光教放送センター



(ナレ)今日は、43歳で亡くなった磯谷剛史いそがいたけしさんの妻・名帆子なおこさんのお話です。金光教大崎おおさき教会の長女として生まれた名帆子さんは、勤めた会社で、同い年の剛史さんと出会い、結婚しました。

(磯谷)私の方が彼と結婚したいと強く思ったんですよ。ちょっかいかけてきたというか声かけてきたのは向こうですけど、そこから会うようになって、踏切を2人で歩いてベビーカーをおしているという映像がパッて浮かんだんですね。私、この人と結婚する。すごいもう、確信的に思って。本当に思い合って結婚することができたんですけれど。うれしかったですし、ずっと10年経っても周りに冷やかされるほど、やっぱりお互い好き好きと。

(ナレ)剛史さんはお寺の檀家の家庭に育ちましたが、チャリティーバザーや、近所の清掃ボランティアなど、名帆子さんの実家の教会行事にも積極的に参加されました。そして、そこで出会った人たちとの関わりをとおして、人を祈り、人を愛し、人を大切にしていく金光教の信心に共感するようになっていきました。やがて、夫婦の間に2人の女の子が生まれました。優しいパパで、仕事もできた剛史さんに悪性の胃癌が見つかったのは今から約4年前。手術で一時は回復するも、再発がわかったときにはすでに手遅れでした。

(磯谷)青天の霹靂でしたね。とても体調もよくて、調子がいいのでこれからというときに。人間ドックを毎年受けていて、ちょっとおかしかったのが、受けたときに最初、問題ないって返されたのに、見落としされてたのかなんか、別の日に電話が急にかかってきて、ちょっと気になる影があるから紹介状書きましょうか?みたいなくらいののりで電話がかかってきて。こんなのりならと思って彼は行ったら、そこでもう印環性細胞胃がんですと。いわゆるスキルス胃がんと同じくらい悪性度の高い、発見されづらくて、見つけられたときにはステージが進んでいるタイプ。やっかいな、顔つきの悪いがんと言われてるタイプのものになっていたと。ステージはすでに3まで行っていたんです。

(ナレ)あんなに元気で、仕事もバリバリでき、家庭では家族を大切にしてくれた剛史さんが、食べることも、排泄することもできにくくなっていきました。体が衰弱していくなかで、剛史さんは日々神様に手を合わせ、祈りを捧げました。

(磯谷)毎朝、病気になってから必ず彼は朝、外の空気を吸いにいって、戻ってきてご祈念をするんですけど、自分は体が辛い状態なのに、祈ってることは自分の事じゃないんですよ。病気が治りますようにとか助かりますようにじゃなくて、私のPTAで大変な目にあってるとか、子供が学校で悩みがあるとか、うちの父も当時、入院したり、大変なことがあったんですけど、そのことを祈ってるんですよね。人のことを祈る。で、自分のことは誰かが祈ってくれている。だから自分は誰かを祈ってその誰かも誰かを祈って、そうやって祈って行けば、世界って平和だよね。すごいこと言えるなって、人となりって究極の時に出ると思うんですよね。ああいう辛い状態で、そういう言葉が出てくる。本物だなって思うし、改めてすごい人と出会えたなと思いますし。

(ナレ)その後、2回目の手術をしましたが、術後の経過は思わしくなく、腸閉塞を起こし、腹水もたまり、医師からは余命幾ばくも無いと告げられます。それでも剛史さんはうろたえることもなく、名帆子さんに、「大事な話があるけど、いいかな?」と、言葉を伝えました。

(磯谷)今、生きている。今、こうしておれてる。そこを感謝する、十分じゃないかな。どれだけ生きたかじゃなくて、どう生きたか、それが大事なんじゃないかなっていうことを伝えてきたんですよね。金光教というものに出会えた、私と出会えたということを感謝してくれた。妻として、夫の健康を守れなかったということ。自分の中で責苦になってるけれど、決してそういうことは彼は言わなかった。ただそういうのを気にしないように逆にママが妻じゃなかったら俺とっくに死んでるよ。逆にママのおかげでここまで生きられたって言ってくれたんですよ。そういう風に、自分も何かがあったときに究極の時にそういう心のきれいな人間でありたいなと思いますね。

(ナレ)令和元年8月4日、当時、10歳の長女・美帆さんは、岡山県の金光教本部で行われる、子供たちの成長を願う年に一度のお祭りの中で、祭壇に折り鶴をお供えするという大役を任されていました。

(磯谷)朝、いってらっしゃい気をつけてねと、ウチは朝出かけるときに必ず、キスしてハグするのが習慣なんですけど。美帆が岡山に向かうというときに、いってきますというときに、気をつけてなって言って、ハグしてキスして、「じゃあ」って別れたのが、結局、最後なんですよね。それができたっていうのが。しかも彼が亡くなった時間がおそらく美帆が折り鶴を壇上に…その時間だったんですよね。見てたのかな。見に行ったのかなって。

(ナレ)剛史さんは最期に、こんな言葉を遺しました。
 「助かるとか、おかげをうけるとか、それってその人その人によって違うと思う。俺にとってどういう意味かなと考えると、『ママが笑顔になること、美帆、さっちんが笑顔でいること…』それを思うと、俺おかげを受けてるなぁ。」
 剛史さんは今もきっと、名帆子さん、美帆ちゃん、彩月さつきちゃんに寄り添って、見守ってくれているに違いありません。

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